昭和三十九年十一月十六日 夜の御理解


 せっかくご信心を頂いておるのでございますから、様々な難儀な事がございます。問題もあります。けれども問題がありますけれども、難儀な事ありますけれども、その問題が難儀が、その問題のおかげで又は難儀のおかげでこういうことが分からしてもらった。こういう風に自分も改まる事が出けた。研く事が出けたとか言ったような事にねなっていかなければ、もう信心頂いている値打ちはないです。
 ただ起きたその問題のことを願うということだけがですね、私、信心じゃないと。その問題その難儀という事によって、おかげでこういう事が分からしてもろうたとかと言うことになってこなければ、この方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんとこう仰る。もういつの場合でも、そこに焦点を置かなけきゃいけないと。このことだけはと言って特別にそれをしてはならないと。私は信心しておりましても、あまり皆の場合その問題がねおかげの元にならずにね、問題が問題の元なっていきよるということですね。もう何でも言うならおかげの事がですね、かえて反対に取り返しのつかない結果になっていきよるという事ですね。
 今日あるところから電話が掛かってまいりました。本当におかげを頂いてから息子さんのお嫁さんの日取りがもう十一日に決まっておりました。お母さんも息子さんもここにお礼に出てまいりましてね、あの本当に息子さんもだいたい参ってこんのですけれども、あー言う性格、温厚な息子さんでした。東京の大学を出てから法科を出てるんです。娘さんも本当に良い娘さんでした。それでなにからかにまで準備万端の上に出けて、もういよいよ式の日を待つばっかりになっとったんです。それから娘さんの家から荷物の一部にその洗濯機とか布団が届いたんですね。
 その届き方が悪かった。家から持って行かずに、その町のことですからデパートで買ったのが、デパートから直接配達したんです。それがここ辺で言うなら、丸井あたりのようにまあーあんまり良いその品物を売らないお店のものだったらしいんですね。まあー言うなら安物の市場から届いたわけです。その商品が。洗濯機やら布団やらが、しかもそののし一つついてなくてから正札がついとったというわけなんですね。それをその信心のない息子さんがまあー腹を立てたわけなんですね。俺んとこを見損なうなと。俺んところではそれこそ一流の一流もう本当に洋服なんかは舶来ものばっかりもうデザインなんかでも素晴らしいデザインでですね、向こうの娘さんもきちっと合わせて何からなにまでしておられるわけなんですね。
 それでもう東京あたりの地名の人達まで招かれることになっとったもんですから、その案内状まで出してあるわけです。それでその仲人さんにその事を話されたところが、仲人さんもそれは手落ちな事でした。不行届きなことでしたと言うて向こうにその事を話された。ところがそんなら又あのこちらへ送り返してもらって改めてということでまあ荷物を取りに見えたそうですけど。それが破談の元です。何から何まで出けて式の日を待つだけだったんです。それで息子さんは法科を出てるもんですから、その弁護士さんに頼んで裁判にしてからとこういうような事で電話が掛かってきたんですね。
 もう本当にそりゃ私どもから考えてみると、日頃馬鹿と阿呆で道を開けとか、喜びで開けた道だからとか言うような御教えが身に付いておったら、全然問題じゃなかったんですね。
 今日また私事でさして頂いた中で、そんなよく似たケースなんです。両方とも。信心があります。おかげで子供が二人も出けた。夫婦ゲンカで帰ってきた。その夫婦ゲンカの元というのが聞けば、おかしいような事なんです。主人がどら猫ばおごりよったち、それでなげをしてくらしよったけんで、嫁さんがそげな事しなさんな。そげな可哀相な事を。猫は性悪けそんなことしなさんなち言うてもそれがダメ。それで嫁さんが猫に言うたげな。はよくらされんうちにはよ逃げろ逃げろち言うたげな。さあーどら猫が逃げたもんでくらすことが出けんもんで、嫁さんをコツンと。さあーそれが腹が立った。帰って来たと。
 もう本当に私は決してそれがね。その事だけがおそらく問題じゃなかったと思うんです。まあー極端に言うなら、芝居の文句じゃないけれども、それこそ遺恨に遺恨が重なってと言うて例えばお初が自害するようなじゃない。おねが自害するような事になったように遺恨に遺恨が重なった上からは仕方があるまいというような事でそういう結果になり、まあー遺恨とまではいかんでも、意地なら意地が重なってです、例えばその猫のような事で問題になってしもて、それが問題じゃないと思うです。それまでに例えば、叩かなおられん事やら叩かれなならんような事やら何かの中に、堪えよったようなものが何かがあっておるからそういうことに爆発したわけなんですよね。
 そこで私は思うんですけど、その遺恨に遺恨が重なるというようなこと。意地から意地が重なるといったような時にです、遺恨ではなく、そん時遺恨に思うても、その遺恨になるような事柄がおかげの元になったとしたら、一つ一つ解決しておったらこんな問題にならないと私は思うんです。意地でお互いが腹を立ておうておるといったような事がです、それが立ておうても良いけども馬鹿らしい事だった。あんな事では神様に相済まなかった。向こうもやっぱり意地を立てなさるはずだと言うて、こちらがその事によって信心していき、おかげにいっちょいっちょしておったらそげな問題、私しゃ起こらないと思うです。いわゆる問題にならない事が問題になっておる。もう信心頂いとって馬鹿のごたる感じがするんですよね。
 今日でも向こうのお母さんが参ってきておる。丁度嫁さんは弟さんが信心するもんですから、丁度ここで一緒になった。神様の御都合ちゃ有難い事じゃなーと私は思うたんです。ところがお母さん帰るまで、嫁さんちょっと子供ひっかろうて帰った。ここ出て行った。それからお母さんも後追いしてからそのなんとか言われたわけでしょ。お母さん最近具合が悪いんです。そしてその私は今日そのもう嫁御が参ってきたから、嫁御に悪く申しました。ばばさんが参ってきましたからばばさんにも申しました。
 私は今日身体が悪かけん今日嫁御さんですたい、もう本当お世話かけました済みませんでした。私、今日送って帰りましょうと言うてくれるかと思うたら、もううちのお母さんが皆こう腹かいちゃち、向こうの主人に出てくるごと言うて下さいという風に言わっしゃった。そげな風なごとあるならば、あの遠方に娘が働き行っとる。暫らくそれなっと呼ばな。私も身体が悪いし、ご飯炊きとうもなかけんと言うようなことを言うわけですから私も申しました。
 あんたがそげな事を言う根性が、その問題になるとよと申しました。たとえ嫁が一日二日帰ってこなかったからと言うて、遠方に行っている娘を呼び寄せたというならば、今度はいよいよ帰りにくなるじゃないかと私は申しました。それこそ婿さんの名前を私申しましたね。二日三日何日か知らんけど○○さんに、私、ご飯炊かせなさい。洗濯くらいせんなら、あしたが出けんならさせなさい。第一女子叩くなんてそんなでけん。そりゃしかしケンカ両成敗だから、どっちも悪かと私申した。こちが母親やら親やらがです、そげん腹かくちゃそげなはずなかち私申しました。それは例えば?あって、そげ言うただけのこと。そげな信心じゃなか。だから問題は、あんた自身がもっと信心になんなさい。まあ言うて言うたんですけども、そういう問題が起こるまでに信心で解決しておれでる問題を、問題にせんですむようなおかげの頂けるのを問題が問題になっておるということね。ちょっと聞けばその本当に、けれどもそうでしょうが。
 嫁御が出ていっとるとね。自分は身体が弱いと理屈はつきます。これで遠方に働きにいっている娘を呼んだとしてごらんなさい。もうそこに角が立ってくるですもんね。ますます事を荒立てることじゃないか申しました。ほんにそりゃ先生そげん言われりゃそう言うことでもござっせんと。だから嫁御さんの名前を言うてから、あの人の気持ちも穏やかになりますごと、息子には私、今日帰ってからようと言うときますけんち言うごとある風で帰られました。けれどもですここにこうして参ってきたから、問題が問題にならずに済んだけれども、参ってきとらんならば、さあーその娘ば呼んどった。帰ってこんなら帰って来てもらわんでよかと例えば言うごたる風な雰囲気になって、問題が問題になるのだと私が言う。
 子供が二人もおってから、一人はひっかろうて帰ってきておる。一人はばばさんが連れてきてござる。さあーお母さんがそこでご祈念しよるもんじゃけん、もう子供は喜んでからね。昨日のケンカの場、見よったげな。子供ながら心配してから、ママーママーち言うてから、その機嫌取りよるわけですたいね。そして近所でんなんでん、そのもう言葉が出けるもんで昨日はパパとママとケンカしたち言うてさるきよるげな。もうおしゃべりでちここでお話なさいましたがね。そげなこと言うちゃでけんばーちおごりよんなさいましたけれどもですね、もう本当にその聞きよってから、もう本当に馬鹿のような事が問題になる。で、問題が問題を呼んでいきよるという事。
 それがその事だけが問題じゃない。そこまでにはです、例えば意地とか、まあー大げさに言うなら遺恨とか言うものがですたい遺恨が遺恨に重なってそういう爆発的な事になってくるんですから、信心させて頂く者は、その遺恨に思うような事柄が、又は意地に感じたり感じられたりしてきた事柄がです、その事によっておかげを頂いていこう。それを一つ一つおかげの元にしていったら、問題ではないでしょうが。
 その今日電話が掛かってきた時なんかでも、結婚のお許しを頂いたことなんかですね、第一和を持ってと言うてから平和の和という字をもうこんなに大きく頂いたんですよ。和を持って話を進めていけと。にもかかわらず和を持っていないですもんね。そりゃ成程なるほど考えてみりゃのしも付けずに、もうその自分の家柄が、もう例えばちょっとしたその進物するでも、そういう安かその貧弱なデパートから物なんか自分の家は買わないというわけ。まして結婚のそのものをそういうところから買うてあるという事が、そのプライドを傷つけたわけなんですね。本当馬鹿と阿呆がどこにいっとるか分からんです。そういうような事が折角まとまったたくさんのお金を使うといて、良か娘を嫁御にすることが出けたと喜びよった。もうそうげな事してしもうた。本当に馬鹿のごたあるでしょうが。しかも今度裁判にするき、また金のいるちわけです。
 問題になるような事柄を、私はその時におかげにしていかなければいけない。喜びで開けた道だから、そりゃおかげやがと例えばそんならばばさんが、ばばさんが一人言うたなら、もう抑えもでけりゃ解決もつくような問題。それを心から言えない。人が一人もいなかったという事。そりゃあんたがあっちに婿どんが悪かだけじゃなか。そりゃ叩かれるあんたも悪かがのち、たとえ帰って来たっちゃ怒って帰すくらいな気持ちがなかなダメです。そげな向こうがその謝らな帰さんといったような雰囲気がもしあるとするなら、もうそれこそそんなら今日でも明日でも参ってくるなら言うて聞かすと言うておいた。だから決して向こうから男が何のてれっとして、なんで呼びにくるもんか。やんなさんなと私は言うた。でもばばさんがそげ言うたんですよ。
 ここに夕食の時でした。久保山先生と久富先生のお茶椀が変わっっとるわけです。久富先生の茶碗は縁が欠けとるわけなんです。それを久保山先生にあげとるわけなんです。あらこりゃ茶碗の変っとるち。誰でん湯呑み茶椀の変っとるは気持ちようなかですもんね。そういう時に、久保山先生が仰るんですよ。こりゃもうおかげになるち言われるわけです。おかげ茶椀になるち。そういうような頂き方がいつもかつもでけるもんだろうかと私は今日思うたね。もう一切がおかげで取っていくという受け方が出けんもんだろうか。信心はそこんとこを稽古ばしょうとじゃなかろうか。はあーおかげ頂いたとそれはおかげじゃと。そりゃそれはまた雨降って地固まるたいと。そしてここでいっちょお互い分かりおおて、おかげになっていかなとそういうような平和な考え方はないものだろうか。
 この方の道は喜びで開けた道だからと。この事をてんで馬鹿のごとなって有頂天になって喜びよる。そんな事誰でん喜ぶ喜べん。普通の信心がなかなら、意地も出さなおられん、遺恨にも思わなおられんというような事柄がです、おかげで受けられてこそ信心じろうね。しかもそれが片っ端信心で解決していくから、いわゆる遺恨に遺恨が重なってから爆発的な問題が問題にならんで解決のおかげを頂いていけれるということ。本当に喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんということ。どのような事柄でも私はこの御教えを頂いていかないけんと。
 問題があっても、その意地を出さなければならないような問題があっても、それはあるですけども、それをおかげにしていかないけん。それをたんびたんびにそうするという事が、多ければ多いほど人間がどんどん出けていくのであり、信心がどんどん進んでいくのであるという事になる。それを例えばグウーグウーやって堪えていきよるというような事になるから、例えば猫をくらせんならくらせられた時に、嫁御くらせんならんと言うことになってくるわけなんです。
 もう私は思う。もうせっかく信心させて頂くのであるから、それを本当におかげだなとおかげ頂いたとそれを喜びで受けさせて頂けるところまで信心させてもらわねば、信心の値打ちはなか。お願する事だけが信心じゃなか。そういう有難い受け方。そういう和らいだ。いやどういう場合でも、本気で馬鹿と阿呆になれるだけの稽古を日頃しとかなければ信心の本当の値打ちを現わすことはでけん。いわゆる喜びが喜びを生んでいくというのではなくて、問題が問題を生んでいくようなことではつまらんと。喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんというようなおかげをです、私は頂いていかなければ信心頂いている値打ちはないのではないかとそんな風に思うんです。
 今日はそんな問題をそう一言じゃなかった。他のこともそんな問題がいくつもあった。なんかそういう一つの同じケースですかね。なんかそんなもんです。今日は一日そういうような問題に取り組んでおかげ頂いたと先生方に話したことでした。もう先生あした方、お取り次させて頂くならね、よっぽどとにかくほんの幼稚園の信心なら幼稚園の生徒でも分かるような事が自分の事になっとったら、問題にしたり分かっていないのだから、先生方よっぽど分かっとかなければお取り次は出けんよと。ただ人事相談的なことで相談相手になってやれることじゃつまらん。本当に氏子が一人一人おかげを頂いていかなければならんのだから、よっぽどここんところば超越した本当に自分自身がどのような事でもです、問題を問題にせず、問題をおかげにしていけれるだけの信心が出けておらなければお取り次は出けんよと言うて話したことですけどね。おかげ頂かなければいけません。